プロフィール
白石としたか
栃木県議会議員
白石としたか
- 昭和50年10月12日生まれ
-
現在 栃木県議会議員4期目(自民党)
<議会>県政経営委員長
<とちぎ自民党>政務調査会副会長、青年局長
剣道場「練兵館」副館長(跡取り) 剣道教士7段 - 血液型 A型
- 性格 バカ正直、頑固一徹、負けず嫌い
- 座右の銘 知行合一 (知識と行動は一体ということ。本当の「知」は実践を伴うこと)
- 尊敬する人 徳川家康、吉田松陰、西郷隆盛、山岡鉄舟
- 好きな食べ物 お米、味噌汁、おしんこ、魚介、田舎料理
- 趣味 魚介料理
- 昭和50年10月12日生まれ
-
現在
栃木県議会議員4期目(自民党)
<議会>県政経営委員長
<とちぎ自民党>政務調査会副会長、青年局長
剣道場「練兵館」副館長(跡取り) 剣道教士7段 - 血液型 A型
-
性格
バカ正直、頑固一徹、負けず嫌い -
座右の銘
知行合一 (知識と行動は一体ということ。本当の「知」は実践を伴うこと) -
尊敬する人
徳川家康、吉田松陰、西郷隆盛、山岡鉄舟 -
好きな食べ物
お米、味噌汁、おしんこ、魚介、田舎料理 - 趣味 魚介料理
エピソード
昭和50年10月12日生まれ
赤ちゃんの頃は、相撲取りの「朝潮」に似ており、朝潮と呼ばれる。
白石正範<剣道場「練兵館館長」>の長男として、剣道だけの幼少時代を過ごす。近年稀に見る厳格な育ちをしたため、我慢の連続で人一倍、負けず嫌いで、芯が強くなる。
中学時代
小山城東小学校卒業
小山第三中学校入学
(全日本少年剣道錬成大会 団体「練兵館」優勝)
朝練、夕方部活、夜道場と剣道ばかりの生活
当時、練兵館は全国大会10年間で8回優勝、2回準優勝という全国最強道場であった。日本一厳しい道場であったと思われる。
※日本一を基準に考える思考は、この頃に形成。
高校時代
小山第三中学校卒業
栃木南高等学校入学(剣道推薦にて)
朝練、夕方部活、夜道場と剣道ばかりの生活
(全国高校選抜剣道大会 団体 準優勝)
(全国高校総体<インターハイ剣道> 団体 準優勝)
高校時代は人生で一番苦しい時代で政治に目覚めた時期であった。
試合に勝てず、学校の部活以外で、父から現代人が絶対に経験することがない地獄の猛特訓を受ける繰り返しで心身ともに限界。恐怖で委縮して勝てない悪循環。2年の時、試合で負け補欠に。父の猛特訓はもう耐えられず、最悪の決断を考えていたら、極度のストレスで幸運にも突然耳が聞こえなくなり入院。
誰一人苦しみの理解者がいない中、入院を機に過去の偉人の伝記に傾倒しその中で徳川家康公始め偉人の苦しい幼少時代に共感。自分は偉人になるために天から苦しい使命を与えられた特別な人間と考えるようになり、政治に目覚めた。当時17歳。
3年時、政界の政権交代による権力闘争と足の引っ張り合い、海外に物を言えぬ姿勢をテレビで見る中で、世襲ばかりの温室育ちで私欲も抑制できない政治家に日本は任せられないと憤慨し、自分が日本の政治を司ると明確に志す。
目標実現のため、剣道推薦による大学進学を希望せず浪人。
浪人時代
栃木南高等学校卒業
剣道ばかりで勉強しなかったため、3年時秋の偏差値は30前後で学年でビリの方。
親族に政治家がいない中、政界に入るならば早稲田か慶応と考え、回りからは高望みし過ぎだとバカにされながらも、2年間、猛勉強。
浪人時代はノイローゼになりながら、1日平均18時間以上は勉強。ノイローゼで髪も抜ける。また、帝王学として過去の偉人の伝記や書物ばかり読む。
親にお金で苦労させたくないため、また普通の受験生と感覚が合わないため、ほとんど予備校に通わず独学。
過去に培った我慢強さと回りからバカにされる悔しさから長時間の勉強にも耐えられた。
大学時代
早稲田大学社会科学部入学(20歳)
父から自由になるため、また生活に困窮していた親友の気持ちを理解するため、仕送りを一切断る。
学費も断っていたが、親に先に大学に振り込まれたため、その分卒業後返すために貯金。奨学金も一切借りず。睡眠を極限まで削って時間の許す限り働く。
おかげで、ワーキングプアの人達の気持ちを心底理解できる。一方で、金銭に恵まれ自由を謳歌できる学生も多く、育ちによる不公平さを知る。
※学生時代の経験から、金銭で苦労せず低所得の人達の気持ちを全く理解できない人達が制度を作っていること自体が間違いであると思い続ける。
(政治活動に邁進)
政界入りの人脈作りをするのが早稲田入学の目的。
入学後すぐに政治サークル鵬志会に入る。雄弁会と競り合っていた実践を重んじるサークルで数多くの国会議員の手伝いをする。また、新進党→自由党(当時名)の学生部に所属し、学生ながら国会や党本部を出入りする。
(自転車で日本一周)
約三ヶ月間で、沖縄と離島以外の海岸線を一周。
回りの学生から、剣道人生の辛さよりも自転車で北海道一周の方が凄いと見下されたため、格の違いを見せるために実行。おかげで、回りの私を見る目が変わる。
多くの大人と接する中で、子を心配する親の心を知る。ほとんど野宿だったため、住居の大切さを知る。山で遭難し、太陽の有り難さを知る。
(世界各国貧乏一人旅)(21歳)
働き過ぎて金銭的に余裕ができた頃、政治家のパーティーで出会った経営者に、海外に行き視野を広げるよう勧められ、紹介された内戦中のスリランカに約2ヵ月ホームステイ。これを機にアジア、アメリカなど、金が続く限り一人で放浪。大学時の約5カ月は海外に。日本と他国の価値観の違いを肌で感じる。
海外に行く前は国粋主義的思考をしていた自分が、国際的な感覚を持てるようになる。
(禅寺に籠もって精神修行)(22歳)
海外留学がしたいと親に頼んだら、外ばかり見てないで内側見つめろ、永平寺に行けと言われる。
剣道と座禅は縁が深く、実家の曹洞宗の総本山である永平寺で参禅するが、一般人は長期修行ができず、永平寺で厳しい師匠の紹介を頼み、現在の私の師匠(福井県天龍寺の前住職)を紹介してもらう。それ以来、座禅三昧となり大学時代の3カ月以上を寺で修行する。
過去の偉人の多くが座禅を組んで精神修業をしていたため、悟って死の恐怖を克服したかった。2週間の断食、一週間トイレ以外ずっと座禅など、極限状態で自己を律する中で宇宙観を持つようになる。
(政治の世界へ)
大物政治家に弟子入りする必要を考え、2年の時から日本だけでなく、アメリカの大物政治家の事務所訪問や手紙を書いていた。
日本はアメリカに支配され、外圧でないと変えずらいことから、留学しながらアメリカの大物政治家の秘書になることが一番の希望であった。しかし、留学費用を用意できないため、仕方がなく日本に留まる。
平成12年(24歳)
早稲田大学社会科学部卒業
2年時の政治家事務所の訪問や政治サークル鵬志会の縁で、当時政界のフィクサーと呼ばれていた小沢一郎事務所に入門。
最初の1年間は代議士自宅に住み込みで草むしり、掃除といった書生としての下働きのみ。その後、代議士の運転手兼カバン持ちとして付き人をする。 当時の政界で一番厳しい事務所と言われていたが、20代半ばで政界の実力者の最側近として日本を眺めることができたのは大変貴重な経験。
平成15年(27歳)
代議士事務所退職
自分が大物政治家となるならば、もっと海外を知ると同時に海外人脈を作る必要性を感じていた。制約の多い政治家事務所ではそれが不可能なため、また、思想の違いを感じ出したため、約3年を区切りに退職。
貿易商社を起業(国際交流に従事)
すぐに海外と仕事に繋がる人脈があったため、貿易商社の起業を考えていた大学時代の親友と起業。
アジア諸国を始め、政治的な国際交流と仕事を絡めながら行き来する。しかし、海外との仕事の成功には、海外に常駐する必要があると痛感。二足のわらじは履けず政治一本で行くと決め2年程度で辞職。
国政を目指し活動をするが出馬できる枠がない。野党で地元以外ならば枠があると誘われたが、野党では思想信条が合わず、まして地元である小山以外での出馬など考えられない。地方議員からという選択肢もあるが踏ん切りが付かず、自分を見つめ直すために師匠の禅寺を行き来する。
平成17年(29歳)
曹洞宗大本山永平寺に修行僧として上山
政治家になるならば、人間の価値観を越えた大局的な判断をできる人間になるよう師匠から指導され、永平寺の修業を強く薦められた。人生において長期の自由時間を取れるのは今しかないと考え上山を決意。
日本とは思えない自由や欲とは程遠い厳しい生活。自然の摂理に従い750年以上続く不思議な世界を体験する中で人間や宗教の本質、食の有り難さなど多くを学ぶ。
平成18年(30歳)
丸一年の修行の末、曹洞宗大本山永平寺を乞暇
小山市議選に向けて活動
永平寺で修業する中、血の繋がり(家系)、血脈(宗教等の教えの繋がり)の重要性を痛感し、家系がある故郷の小山があって自分があることを強く認識。国政の前に小山市政から仕事することを決意。
秘書時代の経験から国が地方まで支配する中央集権の弊害を認識しており、国の真の発展のためには、地方や国民一人一人が自立する必要性を感じていた。
政治活動は書生兼秘書時代に学んだドブ板選挙に徹する。一切、政党や組織の支援を受けず毎朝駅立ち、日中に約1年で約6万件訪問。
平成19年(31歳)
小山市議会議員選挙で当選<無所属>
(小山市議選過去最多得票の4883票でトップ当選)
市議会議員時代は、1人会派で今の政治体制、体質そのものの変革を訴え続ける。今後の政治に必要なのは何を作ったかという目先の予算配分ではなく財政、教育、経済を衰退させた原因である制度自体の変革、それを担う政治家、職員の意識改革こそが必要。
そうした考えの下、特に財政、教育、議会の仕組みの改革を訴え続ける。
平成22年(35歳)
12月末で小山市議会議員を辞職
県政に向けた活動に専念するにあたり、市議会議員として報酬をもらうのは失礼であると考え早期辞職。
平成23年(35歳)
栃木県議会議員選挙で初当選(2位)<無所属>
市議選同様に政党や組織の支援を一切受けず。
前半は無所属で2人会派(元気クラブ)。仲間が自民党に入党したため、後半は1人会派で活動。
県議会は政党=会派であり、無所属の肩身が大変狭い中、ただ一人無所属の一匹狼で将来を見据えた具体的な改革を訴え続ける。厳しい意見は言うが敵は作らないよう適度なバランスを意識。
公営住宅の在り方に異論と代案を述べた時は物議あり。
平成27年(39歳)
栃木県議会議員選挙(2期目)トップ当選<無所属>
一期目同様に政党や組織の支援を一切受けず。
当時の安倍総理が憲法改正を公言したため大いに賛同し、1期目の途中から自民党への入党を視野に入れる。2期目に無所属のままトップ当選したら自民党に入党する意向を示して選挙を戦い、トップ当選。
初心忘れぬため、朝の駅立ちはずっと継続。
平成28年(40歳)
自民党に入党
完全無所属だからこそ支援してくれた皆様を裏切りたくないため、「自分から頭を下げて入るのではない、誘われたから入るんだ」と公言していたため、入党前も後も冷遇される。
おかげで、最初はおとなしく、一から下積みのやり直し
平成31年(43歳)
栃木県議会議員選挙(3期目)トップ当選<自民党>
県土整備委員長や、経済企業委員長、また政務調査会常任理事などを歴任し、政策実現にまい進する。政策実現のための仲間づくりや県庁職員との人間関係作りを重視。
コロナに左右された時期であり、現場を知らない国が決めた予算や政策が大いに不満なため、国に対して意見を述べ続ける。自民党に染まらない改革の急先鋒として独自色を放ち始める。特に、最後の一年は政調会常任理事として多くの政策を実現。
令和5年(47歳)
栃木県議会議員選挙(4期目)トップ当選<自民党>
R5監査委員、R6県政経営委員長
自民党の中堅議員として、政務調査会副会長、青年局長も務める。特に、5年連続で政務調査会に属し、政策実現に向けて精力的に活動中。